感情の不思議

似ているが違う。
同情と共感
〈その1〉
困っている人をみかけると「かわいそう」と感じますね。同情する、ってヤツですね。
ところが「かわいそう」という気持ちは、自分の一方的な思い込み、という場合もあります。
「かわいそう」なご本人は、少しも自分をかわいそうと、思っていなかったり、障害者の中には、そう思われることに憤慨する人もいます。
まっ、ともかく、この同情することに、大きく関わってくる心理規制が「投影」なのです。
投影というのは、自分の中に沸き上がる感情を、外界に映し出す働きです。外界をみて
「かわいそう」と思うとき、自分の中にも「かわいそう」が、あるワケなのだね。

同情には、そのように投影からくるものと、優越感から生まれるものと、罪悪感が刺激されたものと、償いからくるものがあります。
同情と共感
〈その2〉
投影から来る「同情」については、ご理解いただいていると思いますので、優越感から生まれる同情についての心理的状況に進みます。

人と接する時、人は知らず知らずに相手を値踏みしますね。見るからに自分より劣っている人と出会うと、自分と相手を比較する心理が働き、相手に対して、ココロの中に優越感という感情が生まれます。生まれない。。。という人は、いないんじゃないかなー。

さて、子供の頃から障害者や弱者への優越感は、抱いてはいけない、恥ずかしいことだ、と教えられます。そこで、この感情を罪悪と感じ、無意識に抑圧しようとします。つまり「かわいそう」という気持ちに転換されるのです。
ところで、弱者だと思って「かわいそう」と感じた気持ち。相手が弱者で無くなった瞬間、この罪悪感で抑圧していたブレーキが外れ、ねたみや嫉妬に変わる事も、、、あるみたいですぅ。
同情と共感
〈その3〉
家族の誰かが病気や障害を持つと、ココロの中にある罪悪感が刺激されることがある。
「自分のせいで、××になったのでわっ?」とね。家族が病気になったのは、自分がアレをしたからか、しなかったからではないか、心配掛け過ぎたからだろうか・・・。
もっと早く体に気遣っていたら、こんなに重くならなかったんじゃないか・・・と自分を責めたりするんですね。先天的な病気を持つ子供を「かわいそうに」と思う気持ちが「産んでしまって、ごめんなさい」という方向にココロが向かう事もあります。

このような罪悪感から、同情の気持ちが発生したりするワケです。
こういう形の罪悪感は、いまある現状を認めたくない、気持ちから発生するのかも知れません。病気になったのを認めたくない。障害があるのを認めたくない。 と拒否する心境・・。
あるがままを受け入れた時、罪悪感をもつ、必要がないのだと、思えるでしょうね。
同情と共感
〈その4〉
「怒り」は、誰でもが持つ、感情です。通常はそれを制御しながら暮らしています。
しかし、大きなストレスでココロが疲れたり、耐えられないくらいイヤなコトがあると、思わず他者に対して、怒ったり、暴言を吐いたり、暴力にまで発展することがあります。
怒りを他者に向けて、平気でいる人は、稀です。自分の怒りで相手との関係が、破壊される・・・罪悪感を感じることになります。
相手を傷つけたり、関係が壊れた後、静かになったココロで、相手に対して「かわいそう」という気持ちになります。これが「償い」の気持ち。
たとえば、自分勝手に都会で自由奔放に暮らしていた子供が、親の死期が近付いたコトを知って、「罪悪感」や「償いの気持ち」から、看取る為に何日も徹夜をいとわず、人が変わったように泊まり込んで献身的に看護・・などということもあります。
同情と共感
〈その5〉
さて、いよいよ共感の心理です。
共感とはっ・・相手が「いま」どのような主観体験をしているか、どのような考えを持っているか、何を感じているか、といった部分に焦点をあわせ、波長をあわせ、感情移入すること、です。
そのときは、自分の価値観はとっぱらって、相手の立場を意識的に尊重できるから、成り立つのです。 価値観というのは、判断や評価の根っこだから、それを横に置く。

でもまぁ、嫌いな相手に共感する・・・のは、難しいワケで。お互いの間に「信頼」や「安心感」といった肯定的感情が存在しているのがベスト。
「コノヤロウ」とか「アマエンジャネェ」な〜〜んていう感情を隠して、共感したつもりになるのは、ただの「押し付け」だろうね。
同情と共感
〈その6〉
共感能力に影響する最大の要因は「自分が共感された体験」だーね。
人は自分の体験しない事を、理解することはできない。親や、まわりの人間から自分の気持ちを、共感されて育った体験を経て、共感されることの、喜びは学習されます。共感されて育った子供は、共感できる大人になるワケです。

共感される喜びを沢山知っている人は、人と関わろうとします。
より多くの人と関わることによって、他者が現わす「感情」や「ココロの葛藤」を、言語と非言語である、表情、態度というココロのサインを読み取る感受性が、育まれます。
被害感について ストレスから生じる気持ちが他人に向かうとき、被害感情は生まれます。被害感とは「周囲は自分に冷たい」など「悪意を持って自分を虐めている」という感情です。
こうしたことを思っても、普通は「そんなことはない」と打ち消して、ココロを立て直します。しかし、過酷な状態が続いて行くと、被害感は確信になっていくことになります。
ココロのメカニズメとして過度なストレスが加わると、原始的で幼児的な心理段階に変化します。

こうした現象を精神医学では『心理的退行』と呼びます。退行した結果、思考や認知の仕方に、歪みがうまれるのです。誰もが退行すると被害感を持ちやすくなるのです。

被害感を軽減するには、『現実』を知る事です。そのためには心を開いてコミュニケーションすること、情報を集め、現実を認めることです。
無力感について 周囲に関心がなくなり、何もする気になれない状態が無力感です。
体も心もどっぷりと疲労すると、生じる感情です。それは、いわば「あきらめに近い」状態。

たとえば限界に近い状態までがんばって、がんばって、心底疲れ果てているとき、ほんのちょっとのコトで、いままでして来たコトを投げ出してしまう。なみなみと注がれたコップに、一滴の水が落ちた。切っ掛けとも言えない切っ掛けで、溢れてしまうように。
「もう限界だ、自分は何もできない」と感じてしまう。・・・燃え尽き状態。

《自分の目的や理想をもって熱心に取り組んだが、自分の努力がむくわれず、不満足な充足感のない状態に長期に渡ってさらされることの結果、無力感を持ち、自己嫌悪におちいり、意欲も失われ、文字どおりの燃え尽きた心身の状態》
自信と
傲慢・優越感
(その1)
自分に自信を持つのは、イイですね。自信がなければ、この世は地獄・・ってのは、言いすぎかもしれないけれど。
「自信」とは、私はコノママでいい。
私には、何がおきても、解決できると自分を信じる、という気持ち。

とはいっても、自信の持ちすぎ、正当な人の評価を無視するのは「傲慢・うぬぼれ」となり、人を見下すイヤなヤツとなる。
何と言ってできないクセに、できる気になっている。コノママがワガママだということも、あり。
ホントの自信は、傲慢・優越感と一見にている。が、実はまったく違うものである。健全なホンマの自信と謙虚さとは、常に両立している。
自信と
傲慢・優越感
(その2)
よく「自分はプライドが高くて、すぐ傷ついてしまう」と言う方がいます。
どうして傷ついてしまうのでしょう・・どこがどう傷つくのでしょう。
よ〜〜く、自分のココロを見て下さい。

プライドの高さは自信のなさの裏返し。
プライドは自分の中の無価値感を隠すための鎧だったと見えてきませんか?
自信のない部分のみが、傷つくのです。すべてに自信がない、という人は稀。傷つかない部分もあるのだと、見えてきませんか?

傷つかない部分は、意識するのが難しい・・・当たり前のことを見ていく。のも、大事ですね。
どうしてココは傷ついて、ココは何とも思わないのか・・・そうやって、自分を見ていくと、いかに「自分」というものは、カタヨリがあるのかに気づく。のですよね。

じつは、そのカタヨリが「意識している自分」なのです。「自分」そのもの、なんです。もし、完璧な「自分」であれば、「自分」というものは、意識できないのではないかと思います。



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